大嫌いな算数の問題(SPI)を解きながら思ったこと。
例えば、Study Proに出てくる問題
大小2つのサイコロを同時に投げる。
(1)2つのサイコロの目の積が偶数になる確率はいくらか。
A 1 / 16
B 1 / 8
C 1 / 4
D 3 / 8
E 1 / 2
F 5 / 8
G 3 / 4
H 7 / 8
これなら私でも分かる!
積が偶数になるのは
[大,小] = [偶数,偶数]、[偶数,奇数]、[奇数,偶数]、[奇数,奇数]の4つ
の組み合わせのうち
[偶数,偶数]、[偶数,奇数]、[奇数,偶数]の3つ
なので答えは
G 3/4。
全く数学的ではない邪道な解法な気がするけど。
SPIは選択式なので、他の問題を解いてても「この条件なら、このくらいかな?」と偶然正解してしまうことも。
SPIの簡単な例題を解いてて、米原万里の「不実な美女か貞淑な醜女か」を思い出した。
あるとき、わが師匠の徳永晴美氏が、「他人の通訳を聞いて、『コイツ、なんて下手なんだ』と思ったら、きっとその通訳者のレベルは、君と同じぐらいだろう。『ああ、この程度の通訳なら、私だって出来る」という感触を持ったなら、その人は、君より遥かに上手いはずだからね」
と述べたのは、別に「自分に厳しく、他人にやさしく」という人の道を説いたわけではない。他人の通訳を聞くときは、消極的知識を動員すれば事足りるのに、自分でプレゼンテーションするときは、積極的知識で当たらねばならず、消極的知識は積極的知識を常に量的に凌駕するものである以上、客観的に当然の真理なのである。
自分で実際に「やってみる」のは難しいけど、他人が「やったもの」にいちゃもんを付けるのは簡単。
ちゃんと計算せず、選択式のSPI非言語の問題を私の様に感覚で解くのは当てずっぽう、もうちょっとカッコよく言うと消極的知識のような気がする。
米原万里はチェコで9歳から14歳まで5年間過ごした後、日本の中学校に編入して受けた日本のテスト方式について、
○×や選択式テストには、人格を切り刻まれるような恐怖をおぼえた。 ずたずたに切り刻まれて、腑分けされて、その切れ端だけ確かめられる感じで薄気味悪かった。プラハのロシア語学校で最初言葉が通じなかったときよりももっと辛かった。
偉くない「私」が一番自由
とのこと。
うちの子供は日本の学校に通ってないので、今の日本の学校のテストがどうなっているか詳しく分からないけど、米原万里が少女だった頃からは改善してると思いたい…。
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